2021年12月沖縄の旅 3日目 [旅]
2021年12月沖縄の旅3日目。
この日は5:30頃起床する。
メールチェックなどして、ホテルを8:45頃チェックアウトする。
パーキングには8:53頃到着する。
パーキングの料金は24時間の最大料金が適用されて700円。
出発して北谷町にある「浜屋」まで朝食をいただきに向かう。
R58を名護方面に進むが、この日も天気は曇り。
雨が降り出しそうな感じもする。
嘉手納基地付近で「浜屋」に向け左に進む。
「浜屋」には9:30頃到着する。
開店時間の10:00まで、海を見たりして過ごす。
天気の影響かいつもより波は荒い。
10:00になったので店内に入る。
券売機を見ると、浜屋そばが70円値上げされ750円に、その他のそばも50円値上げされているのが多かった。
浜屋そばライスセット(800円)
息子はアレルギーがあるので、玉子はなしにしてもらった。
中味そば大盛り(750円+100円)
このところゆしどうふそばが続いていたので、中味そばにした。
最近感じているのだが、以前より少し味が落ちている気がした。
朝食後は「勝連城跡」に向かうため、R58を少し戻り沖縄方面に向け23号線を進む。
この後85号線、33号線、16号線を進む。
そして11:15頃「勝連城跡」に到着する。
https://www.katsuren-jo.jp/
少し眠かったので12:00頃まで仮眠をとる。
目が覚めたところで、2021年10月にオープンしたばかりの歴史文化施設「あまわりパーク」に行ってみる。
ここに来るのはおよそ20年ぶり。
2022年1月より観覧料大人600円、小人400円がかかるようになると聞いたので、無料のうちに来ることにした。
常設展示室の方から見てみる。
世界遺産「琉球王国のグスク及び関連遺産群」琉球王国など
勝連と肝高の阿麻和利
うるまー珊瑚の島ー
現代版組踊「肝高の阿麻和利」など
阿麻和利ライブシアターが上映されていた。
勝連グスク再現模型
これで常設展示室は終了。
こちらは企画展示室。
外に出て「勝連城跡」を見てみる。
防御田地
かつて付近一帯は 底なしの沼と言われるほど、水量豊富な湿地帯だった。
グスク時代には争い事が頻発していたことから、侵入者があった場合、湿地帯に足を取られる防御ラインとしての機能が想定され、平時においては城の財政を支える農地として活用されていた。
水源の一つは、左手の森にあるアコージガーという名の泉で、ここは一般の人々に使用されており、かつて城に向かう旧道もあった。
西原御門への道
この道は、場外からアーチ門であったと伝えられている西原御門へと続く道であった。
遺構調査では路面に不安定な石灰岩や、路肩側には成形された方形の石灰岩が見つかったことから、かつてここは石灰岩が敷き詰められた石畳道であったと考えられる。
100年以上前に撮影された写真にも、現在の南風集落方面へように伸びた道が写っている。
門口のカー
大きな川の少ない沖縄ではカーという泉が水源であり、人々の暮らしの中心となっていた。
ここは旧暦の2月・8月の村の除災招福を願う行事が行われる場でもある。
名前の由来となっている西原御門から城内へ入る際に、訪問者が手足を清めるために使用していたと言われている。
また集落や港と反対側に位置する西原御門にこのカーが存在することから、身分の低い家臣が利用していたと考えられている。
マチダ・ナケージガー
沖縄全域にみられる御嶽(聖地)の中でも、王府編纂の地誌『琉球国由来記』に記載されている、マチダの御嶽、ナケージの御嶽に縁起を持つ特別な場所。
王国時代より神々と繋がる泉(カー)として、少なくとも300年以上の歴史を持った祈りの場であると考えられている。
以前はヌールガーと呼ばれていたが、聞き取り調査よりマチダ・ナケージガーであることが分かった。
旧暦の2月と8月に村の安寧を祈る御願を行う場所で、現在も地域の信仰の対象となっている。
右旋回の階段
勝連城の各曲輪を結ぶ石階段は、城壁に沿うように右側から旋回して上る構造になっていて、敵軍による侵入を防ぐ工夫と考えられている。
階段を急勾配にすることにより侵入者の体力を消耗させ、さらに右手側城壁より攻撃を加えることで、敵軍の機動力と攻撃力を弱める効果があり、敵軍による攻撃のアプローチを制限できること、高い場所から相手の兵力を確認できることなどの利点もありる。
このように勝連城の階段が描く美しい曲線には、古の人々の工夫が込められている。
仲間ヌウカー(カンジャガー)
12世紀から15世紀前半のグスク時代、この地域の鍛冶屋(カンジャー)であった仲間家が使用していた泉であるという伝説から、カンジャーガーとも呼ばれている。
周辺の発掘調査で、鍛冶屋跡は現在のところ発見されていないが、仲間家先祖は安全な場所を求めて、鍛冶屋の場所を替えながら武具の製作や修理を行っていたと言われている。
ウタミシガー
ウタミシはお試し、カー(ガー)とは泉を意味する沖縄の言葉。
旧暦元旦の初拝の際に、水の量によって一年の豊作・凶作を占うことから、ウタミシガーという名前が付いたと伝えられている。
この泉の水量が豊富にあるときはサーイ年(不作の年)、水が少ないときはユガフーの年(豊作の年)と言われている。
ミートゥガー
かつてこの泉が、男女の逢瀬の場であったという伝説から縁結びのカー(泉)と伝えられている。
女性が自由な行動を制限された時代でも、水汲みは若者の仕事であり、外出できる口実になりえたのだろう。
一方で、この泉のそばで恋物語をするなという言い伝えもある。
ここで結ばれた男女が別れると、どちらかに不幸が起きると信じられていたからである。
泉は命の源であり、聖域であることから、困難があっても添い遂げよという教えなのかもしれない。
三の曲輪に向かう。
石積み
沖縄のグスクの石積みは、大きく分けて三種類の積み方がある。
自然石を大まかに加工して積んだ野面積み、四角い切石を水平に積み上げた布積み、多角形の石を亀甲型に積んだ相方積みがあり、野面積み→布積み→相方積みと発達したと考えられている。
勝連城の石積みは、そのほとんどが布積みで積まれ、鈎かぎ状に組むことで、強度を増した工夫も見られる。
三の曲輪城門(四脚門)
四の曲輪から細く長い石畳道を上りつめたところに、かつて内郭の門があった。
発掘調査したところ、礎石と壁にはほぞ穴と考えられる、四箇所のくぼみが確認され。
このことから三の曲輪城門は、四本の柱で屋根を支える四脚門(薬医門)であったと考えられている。
薬医門は東京大学の通称赤門(正式名称:旧加賀屋敷御守殿門/国指定重要文化財)が有名だが、16世紀以降の寺の門にも多く見られる構造。
三の曲輪
二の曲輪基壇
基壇とは、建物の基礎になる石や、土で一段高く築いた場所のことで、二の曲輪と三の曲輪の境は、石灰岩切石積で築かれ、南北全長約41m、ほぼ一直線に造られている。
南側では約2m奥に入っており、他部分より古い時代の建築であったと推測され、二の曲輪に存在した舎殿は、長い歴史の中で、少なくとも二度の建て替えがあったと考えられている。
トゥヌムトゥ(神人の腰掛け)
ここに並べられている石はトゥヌムトゥと呼ばれ、旧暦の2月と5月に行われる祭祀(うまちー)の時に神人たちが腰掛けたりするもの。
いつ頃から置かれたかは分からないが、民俗資料として大変貴重なもの。
すり鉢状遺構No1
ここに埋もれている遺構には、表面に粘土が張りつけられていることから、水を溜める施設と考えられている。
すり鉢状遺構No2
ここに埋もれている遺構には、表面に粘土とこぶし大の石が張りつけられている。
肝高の御嶽/トゥヌムトゥ
神人と呼ばれる女性祭司を中心に行われる、王国時代から続くウマチーという年中行事の拝所。
旧暦2月と3月に麦、5月と6月には稲の、それぞれ初穂や豊作を祈る。
御嶽の近くには、神人たちが腰掛けたと言われる石列(トゥヌムゥトゥ)がある。
以前は、ウマチーの際に神人たちの前で若者が、イユコーイミソーリー(魚を買って下さい)と呼びかけて回ったと言われている。
二の曲輪に向かう。
舎殿跡
正面約17m、奥行き約14.5mの、やや長方形の舎殿跡。
この建物は首里城正殿のような柱の多い構造で、礎石のあるしっかりとした造りであったことが分かっている。
勝連城城郭内で、最も重要な建物であったと考えられている。
舎殿が建てられた時代、屋根は板葺きが主流だったが、周辺からは大和系瓦も発見されていることから、瓦葺きの建物であったという説もあり、勝連の栄華が偲ばれる。
ウミチムン(火の神)
ウミチムンとは三個のかまど石を意味する言葉。
琉球古来の信仰で、火の神が祀られている。
この信仰は現在も続いており、沖縄の各家庭では台所に火の神を祀り、家内安全を願う風習が残されている。
また藪地島、浜比嘉島、久高島、津堅島など、神話を残す周辺の島々を、遙かに拝む場所でもある。
ウシヌジガマ
ガマとは、沖縄本島南部に多く見られる自然洞穴のこと。
ウシヌジには身を隠し、凌しのぐという意味があり、このガマは身に危険が及んだ時に逃げ込む場所であったと言われている。
1458年、首里王府軍によって攻め入られた際、圧倒的に数で勝る敵軍に対し善戦したものの、難攻不落とされた勝連城も、最後は力尽きてしまった。
真相は謎に包まれたままだが、この洞穴は一の曲輪玉ノミウヂ御嶽脇の洞穴と続いており、城主である阿麻和利は、ここを抜けて現在の読谷村まで逃げ延びたという伝説が残っている。
一の曲輪階段
一の曲輪階段は、敵軍による侵入などの勝連城有事の際の、最終防御ラインとしての役割を担っており、城内に攻め入った敵が一挙に侵入できないよう、上るにつれて階段幅が徐々に狭まる構造となっている。
また石積みに沿わせた道から敵の横腹を突いて撃退する仕組みなどの様々な仕掛けにより、少ない兵力でも敵軍と互角に戦える工夫が見られる。
一の曲輪
玉ノミウヂ御嶽
一の曲輪のほぼ中央にある、勝連を守護する大きな霊石をご神体とする御嶽で、村の繁栄が祈願されていた。
霊石の表面が平坦にされていることから、グスク時代には、建物の基礎に利用されていたとみられ、発掘調査によりかつてこの曲輪には宝物殿のような建物があったことが分かっている。
また霊石脇にある洞穴は かつては二の曲輪のウシヌジガマと続いており、有事の際の避難路として使用されていた という伝説が残されている。
一の曲輪からの宜野湾方面の眺め。
平安座島、宮城島、伊計島法眼の眺め。
「勝連城跡」はこれにて終了。
この後は名護のホテルに向かう。
16号線、33号線、36号線を経由して、R329を名護方面に向け右に進む。
潟原干潟付近を通過。
71号線を許田方面に向け左に進む。
この後ちょっと寄り道をする。
この先に明治山登山口というのを見つけたので、登山できるか確認してみる。
71号線を2分ほど走ると、明治山と思われる山が見えてきた。
明治山登山口付近で登山口を探してみる。
3分ほど探すとそれらしき場所を発見する。
なんとなく踏跡らしきものが見える。
14:30頃、ここから登ってみる。
鎖があった。
踏跡らしきものは続いている。
テープもあった。
おそらくここが登山道で間違いないだろう。
あまり人が入らないだろうか、結構歩きづらい。
そしてものすごい数のクモの巣。
上の方が明るくなってきた。
そろそろ山頂だろうか。
そして14:49頃、1つ目のピークに到着。
ここが山頂かと思ったが、この先ルートが続いている。
先に進んでみる。
3分ほど進むと上の方が明るくなってきた。
そして14:53頃、2つめのピークに到着。
さらにこの先ルートが続いている。
先に進んでみる。
このルートは進んではいけないと思われる場所には、白いテープが張ってある。
不自然な場所に白いテープがある。
見てみると足元に3mほどの穴が開いている。
なるほど穴に落ちないようにテープが張ってあるのか。
そして足元をよく見てみると、四島三角点を発見。
そうかここが山頂なのか。
14:57頃、明治山(284.3m)山頂に到着。
テープがなかったら通り過ぎていただろう。
展望もないのですぐに戻ることにした。
先ほどは気づかなかったが、2つめのピークに赤い板に CP9 52RCQ9767834000 NICE VIEW! とある。
右を見るとキャンプシュワブ、シーグラスビーチ方面の展望。
先ほど走ってきた原干潟方面の展望。
1つ目のピークに戻ってきたが、先ほど登ってきた右のルートには白いテープが張られているので、左のルートに進んでみる。
登りと違い歩きやすいルート。
クモの巣もほとんどない。
苦労して登ってきたルートと違い、鼻歌まじりに歩けるルート。
この際進むと、どこに出るのだろうか。
再び赤い板を発見。
6MILEとある。
およそ10km先に何があるのだろうか。
22分ほど下ると平地に出た。
再び赤い板を発見。
CP10 52RCQ9777134677 とある。
平地を右に進むと舗装路が見えてきた。
そして15:23頃、71号線に出てルートは終了する。
この場所は13.5kmポスト、宜野座村役場の監視カメラがある場所。
今来た道を振り返ったところ。
ガードレールの先にルートが見える。
さて先ほど駐車したレンタカーに向け、700mほど71号線を右に進む。
13.7kmポスト付近にかなり広い駐車スペースがある。
14.0kmポストを通過。
レンタカーが見えてきた。
左は米軍海兵隊施設のGATE79。
そして15:33頃、レンタカーに戻る。
71号線を名護方面に進む。
左に見えるガードレールのところが、先ほど下ってきた場所。
R58を辺戸岬方面に向け右に進む。
名護の市街地が見えてきた。
そして15:45頃「ホテル アイオライト」に到着する。
ここに3泊するのだが、料金は1泊5,500円で合計16,500円。
この日宿泊する部屋に到着する。
靴を脱いで部屋に入る。
マンションを改装したホテルのようでかなり広い。
部屋はツインルームにした。
デスク、イス
キッチン、電子レンジ、冷蔵庫、洗濯機、乾燥機
シャワールーム
いつもシャワーなのでこれで十分。
トイレと別なのがうれしい。
トイレ
普通の家のトイレと同じでかなり広い。
さて部屋でロング間を2本空け、18:23頃「さくら食堂」まで夕食をいただきに出かける。
「さくら食堂」のある「名護市営市場」に到着。
2Fにある「さくら食堂」には18:35頃到着。
私は豆腐ちゃんぷる~定食(780円)をいただく。
息子はトンテキ定食(780円)をいただく。
ご飯おかわり自由なので、2人ともおかわりした。
お腹いっぱいいただき、19:50頃ホテルに戻る。
この後はメールチェックなどして、23:00頃就寝した。
【散策メモ】
2021年12月26日(日)
勝連城跡・・・明治山
歩数:17,969歩
歩行距離:11,6799m
歩行時間:2時間56分
消費カロリー:478.3kcal
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この日は5:30頃起床する。
メールチェックなどして、ホテルを8:45頃チェックアウトする。
パーキングには8:53頃到着する。
パーキングの料金は24時間の最大料金が適用されて700円。
出発して北谷町にある「浜屋」まで朝食をいただきに向かう。
R58を名護方面に進むが、この日も天気は曇り。
雨が降り出しそうな感じもする。
嘉手納基地付近で「浜屋」に向け左に進む。
「浜屋」には9:30頃到着する。
開店時間の10:00まで、海を見たりして過ごす。
天気の影響かいつもより波は荒い。
10:00になったので店内に入る。
券売機を見ると、浜屋そばが70円値上げされ750円に、その他のそばも50円値上げされているのが多かった。
浜屋そばライスセット(800円)
息子はアレルギーがあるので、玉子はなしにしてもらった。
中味そば大盛り(750円+100円)
このところゆしどうふそばが続いていたので、中味そばにした。
最近感じているのだが、以前より少し味が落ちている気がした。
朝食後は「勝連城跡」に向かうため、R58を少し戻り沖縄方面に向け23号線を進む。
この後85号線、33号線、16号線を進む。
そして11:15頃「勝連城跡」に到着する。
https://www.katsuren-jo.jp/
少し眠かったので12:00頃まで仮眠をとる。
目が覚めたところで、2021年10月にオープンしたばかりの歴史文化施設「あまわりパーク」に行ってみる。
ここに来るのはおよそ20年ぶり。
2022年1月より観覧料大人600円、小人400円がかかるようになると聞いたので、無料のうちに来ることにした。
常設展示室の方から見てみる。
世界遺産「琉球王国のグスク及び関連遺産群」琉球王国など
勝連と肝高の阿麻和利
うるまー珊瑚の島ー
現代版組踊「肝高の阿麻和利」など
阿麻和利ライブシアターが上映されていた。
勝連グスク再現模型
これで常設展示室は終了。
こちらは企画展示室。
外に出て「勝連城跡」を見てみる。
防御田地
かつて付近一帯は 底なしの沼と言われるほど、水量豊富な湿地帯だった。
グスク時代には争い事が頻発していたことから、侵入者があった場合、湿地帯に足を取られる防御ラインとしての機能が想定され、平時においては城の財政を支える農地として活用されていた。
水源の一つは、左手の森にあるアコージガーという名の泉で、ここは一般の人々に使用されており、かつて城に向かう旧道もあった。
西原御門への道
この道は、場外からアーチ門であったと伝えられている西原御門へと続く道であった。
遺構調査では路面に不安定な石灰岩や、路肩側には成形された方形の石灰岩が見つかったことから、かつてここは石灰岩が敷き詰められた石畳道であったと考えられる。
100年以上前に撮影された写真にも、現在の南風集落方面へように伸びた道が写っている。
門口のカー
大きな川の少ない沖縄ではカーという泉が水源であり、人々の暮らしの中心となっていた。
ここは旧暦の2月・8月の村の除災招福を願う行事が行われる場でもある。
名前の由来となっている西原御門から城内へ入る際に、訪問者が手足を清めるために使用していたと言われている。
また集落や港と反対側に位置する西原御門にこのカーが存在することから、身分の低い家臣が利用していたと考えられている。
マチダ・ナケージガー
沖縄全域にみられる御嶽(聖地)の中でも、王府編纂の地誌『琉球国由来記』に記載されている、マチダの御嶽、ナケージの御嶽に縁起を持つ特別な場所。
王国時代より神々と繋がる泉(カー)として、少なくとも300年以上の歴史を持った祈りの場であると考えられている。
以前はヌールガーと呼ばれていたが、聞き取り調査よりマチダ・ナケージガーであることが分かった。
旧暦の2月と8月に村の安寧を祈る御願を行う場所で、現在も地域の信仰の対象となっている。
右旋回の階段
勝連城の各曲輪を結ぶ石階段は、城壁に沿うように右側から旋回して上る構造になっていて、敵軍による侵入を防ぐ工夫と考えられている。
階段を急勾配にすることにより侵入者の体力を消耗させ、さらに右手側城壁より攻撃を加えることで、敵軍の機動力と攻撃力を弱める効果があり、敵軍による攻撃のアプローチを制限できること、高い場所から相手の兵力を確認できることなどの利点もありる。
このように勝連城の階段が描く美しい曲線には、古の人々の工夫が込められている。
仲間ヌウカー(カンジャガー)
12世紀から15世紀前半のグスク時代、この地域の鍛冶屋(カンジャー)であった仲間家が使用していた泉であるという伝説から、カンジャーガーとも呼ばれている。
周辺の発掘調査で、鍛冶屋跡は現在のところ発見されていないが、仲間家先祖は安全な場所を求めて、鍛冶屋の場所を替えながら武具の製作や修理を行っていたと言われている。
ウタミシガー
ウタミシはお試し、カー(ガー)とは泉を意味する沖縄の言葉。
旧暦元旦の初拝の際に、水の量によって一年の豊作・凶作を占うことから、ウタミシガーという名前が付いたと伝えられている。
この泉の水量が豊富にあるときはサーイ年(不作の年)、水が少ないときはユガフーの年(豊作の年)と言われている。
ミートゥガー
かつてこの泉が、男女の逢瀬の場であったという伝説から縁結びのカー(泉)と伝えられている。
女性が自由な行動を制限された時代でも、水汲みは若者の仕事であり、外出できる口実になりえたのだろう。
一方で、この泉のそばで恋物語をするなという言い伝えもある。
ここで結ばれた男女が別れると、どちらかに不幸が起きると信じられていたからである。
泉は命の源であり、聖域であることから、困難があっても添い遂げよという教えなのかもしれない。
三の曲輪に向かう。
石積み
沖縄のグスクの石積みは、大きく分けて三種類の積み方がある。
自然石を大まかに加工して積んだ野面積み、四角い切石を水平に積み上げた布積み、多角形の石を亀甲型に積んだ相方積みがあり、野面積み→布積み→相方積みと発達したと考えられている。
勝連城の石積みは、そのほとんどが布積みで積まれ、鈎かぎ状に組むことで、強度を増した工夫も見られる。
三の曲輪城門(四脚門)
四の曲輪から細く長い石畳道を上りつめたところに、かつて内郭の門があった。
発掘調査したところ、礎石と壁にはほぞ穴と考えられる、四箇所のくぼみが確認され。
このことから三の曲輪城門は、四本の柱で屋根を支える四脚門(薬医門)であったと考えられている。
薬医門は東京大学の通称赤門(正式名称:旧加賀屋敷御守殿門/国指定重要文化財)が有名だが、16世紀以降の寺の門にも多く見られる構造。
三の曲輪
二の曲輪基壇
基壇とは、建物の基礎になる石や、土で一段高く築いた場所のことで、二の曲輪と三の曲輪の境は、石灰岩切石積で築かれ、南北全長約41m、ほぼ一直線に造られている。
南側では約2m奥に入っており、他部分より古い時代の建築であったと推測され、二の曲輪に存在した舎殿は、長い歴史の中で、少なくとも二度の建て替えがあったと考えられている。
トゥヌムトゥ(神人の腰掛け)
ここに並べられている石はトゥヌムトゥと呼ばれ、旧暦の2月と5月に行われる祭祀(うまちー)の時に神人たちが腰掛けたりするもの。
いつ頃から置かれたかは分からないが、民俗資料として大変貴重なもの。
すり鉢状遺構No1
ここに埋もれている遺構には、表面に粘土が張りつけられていることから、水を溜める施設と考えられている。
すり鉢状遺構No2
ここに埋もれている遺構には、表面に粘土とこぶし大の石が張りつけられている。
肝高の御嶽/トゥヌムトゥ
神人と呼ばれる女性祭司を中心に行われる、王国時代から続くウマチーという年中行事の拝所。
旧暦2月と3月に麦、5月と6月には稲の、それぞれ初穂や豊作を祈る。
御嶽の近くには、神人たちが腰掛けたと言われる石列(トゥヌムゥトゥ)がある。
以前は、ウマチーの際に神人たちの前で若者が、イユコーイミソーリー(魚を買って下さい)と呼びかけて回ったと言われている。
二の曲輪に向かう。
舎殿跡
正面約17m、奥行き約14.5mの、やや長方形の舎殿跡。
この建物は首里城正殿のような柱の多い構造で、礎石のあるしっかりとした造りであったことが分かっている。
勝連城城郭内で、最も重要な建物であったと考えられている。
舎殿が建てられた時代、屋根は板葺きが主流だったが、周辺からは大和系瓦も発見されていることから、瓦葺きの建物であったという説もあり、勝連の栄華が偲ばれる。
ウミチムン(火の神)
ウミチムンとは三個のかまど石を意味する言葉。
琉球古来の信仰で、火の神が祀られている。
この信仰は現在も続いており、沖縄の各家庭では台所に火の神を祀り、家内安全を願う風習が残されている。
また藪地島、浜比嘉島、久高島、津堅島など、神話を残す周辺の島々を、遙かに拝む場所でもある。
ウシヌジガマ
ガマとは、沖縄本島南部に多く見られる自然洞穴のこと。
ウシヌジには身を隠し、凌しのぐという意味があり、このガマは身に危険が及んだ時に逃げ込む場所であったと言われている。
1458年、首里王府軍によって攻め入られた際、圧倒的に数で勝る敵軍に対し善戦したものの、難攻不落とされた勝連城も、最後は力尽きてしまった。
真相は謎に包まれたままだが、この洞穴は一の曲輪玉ノミウヂ御嶽脇の洞穴と続いており、城主である阿麻和利は、ここを抜けて現在の読谷村まで逃げ延びたという伝説が残っている。
一の曲輪階段
一の曲輪階段は、敵軍による侵入などの勝連城有事の際の、最終防御ラインとしての役割を担っており、城内に攻め入った敵が一挙に侵入できないよう、上るにつれて階段幅が徐々に狭まる構造となっている。
また石積みに沿わせた道から敵の横腹を突いて撃退する仕組みなどの様々な仕掛けにより、少ない兵力でも敵軍と互角に戦える工夫が見られる。
一の曲輪
玉ノミウヂ御嶽
一の曲輪のほぼ中央にある、勝連を守護する大きな霊石をご神体とする御嶽で、村の繁栄が祈願されていた。
霊石の表面が平坦にされていることから、グスク時代には、建物の基礎に利用されていたとみられ、発掘調査によりかつてこの曲輪には宝物殿のような建物があったことが分かっている。
また霊石脇にある洞穴は かつては二の曲輪のウシヌジガマと続いており、有事の際の避難路として使用されていた という伝説が残されている。
一の曲輪からの宜野湾方面の眺め。
平安座島、宮城島、伊計島法眼の眺め。
「勝連城跡」はこれにて終了。
この後は名護のホテルに向かう。
16号線、33号線、36号線を経由して、R329を名護方面に向け右に進む。
潟原干潟付近を通過。
71号線を許田方面に向け左に進む。
この後ちょっと寄り道をする。
この先に明治山登山口というのを見つけたので、登山できるか確認してみる。
71号線を2分ほど走ると、明治山と思われる山が見えてきた。
明治山登山口付近で登山口を探してみる。
3分ほど探すとそれらしき場所を発見する。
なんとなく踏跡らしきものが見える。
14:30頃、ここから登ってみる。
鎖があった。
踏跡らしきものは続いている。
テープもあった。
おそらくここが登山道で間違いないだろう。
あまり人が入らないだろうか、結構歩きづらい。
そしてものすごい数のクモの巣。
上の方が明るくなってきた。
そろそろ山頂だろうか。
そして14:49頃、1つ目のピークに到着。
ここが山頂かと思ったが、この先ルートが続いている。
先に進んでみる。
3分ほど進むと上の方が明るくなってきた。
そして14:53頃、2つめのピークに到着。
さらにこの先ルートが続いている。
先に進んでみる。
このルートは進んではいけないと思われる場所には、白いテープが張ってある。
不自然な場所に白いテープがある。
見てみると足元に3mほどの穴が開いている。
なるほど穴に落ちないようにテープが張ってあるのか。
そして足元をよく見てみると、四島三角点を発見。
そうかここが山頂なのか。
14:57頃、明治山(284.3m)山頂に到着。
テープがなかったら通り過ぎていただろう。
展望もないのですぐに戻ることにした。
先ほどは気づかなかったが、2つめのピークに赤い板に CP9 52RCQ9767834000 NICE VIEW! とある。
右を見るとキャンプシュワブ、シーグラスビーチ方面の展望。
先ほど走ってきた原干潟方面の展望。
1つ目のピークに戻ってきたが、先ほど登ってきた右のルートには白いテープが張られているので、左のルートに進んでみる。
登りと違い歩きやすいルート。
クモの巣もほとんどない。
苦労して登ってきたルートと違い、鼻歌まじりに歩けるルート。
この際進むと、どこに出るのだろうか。
再び赤い板を発見。
6MILEとある。
およそ10km先に何があるのだろうか。
22分ほど下ると平地に出た。
再び赤い板を発見。
CP10 52RCQ9777134677 とある。
平地を右に進むと舗装路が見えてきた。
そして15:23頃、71号線に出てルートは終了する。
この場所は13.5kmポスト、宜野座村役場の監視カメラがある場所。
今来た道を振り返ったところ。
ガードレールの先にルートが見える。
さて先ほど駐車したレンタカーに向け、700mほど71号線を右に進む。
13.7kmポスト付近にかなり広い駐車スペースがある。
14.0kmポストを通過。
レンタカーが見えてきた。
左は米軍海兵隊施設のGATE79。
そして15:33頃、レンタカーに戻る。
71号線を名護方面に進む。
左に見えるガードレールのところが、先ほど下ってきた場所。
R58を辺戸岬方面に向け右に進む。
名護の市街地が見えてきた。
そして15:45頃「ホテル アイオライト」に到着する。
ここに3泊するのだが、料金は1泊5,500円で合計16,500円。
この日宿泊する部屋に到着する。
靴を脱いで部屋に入る。
マンションを改装したホテルのようでかなり広い。
部屋はツインルームにした。
デスク、イス
キッチン、電子レンジ、冷蔵庫、洗濯機、乾燥機
シャワールーム
いつもシャワーなのでこれで十分。
トイレと別なのがうれしい。
トイレ
普通の家のトイレと同じでかなり広い。
さて部屋でロング間を2本空け、18:23頃「さくら食堂」まで夕食をいただきに出かける。
「さくら食堂」のある「名護市営市場」に到着。
2Fにある「さくら食堂」には18:35頃到着。
私は豆腐ちゃんぷる~定食(780円)をいただく。
息子はトンテキ定食(780円)をいただく。
ご飯おかわり自由なので、2人ともおかわりした。
お腹いっぱいいただき、19:50頃ホテルに戻る。
この後はメールチェックなどして、23:00頃就寝した。
【散策メモ】
2021年12月26日(日)
勝連城跡・・・明治山
歩数:17,969歩
歩行距離:11,6799m
歩行時間:2時間56分
消費カロリー:478.3kcal
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2022-06-11 06:00
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