国府津散策③ [散策]
前週に続き湘南方面散策に行ってみた。
国府津駅から曽我丘陵を歩く。
曽我神社に到着。
宗我神社は1028年創建で、 小田原北条氏の時代から小田原城鬼門擁護の神社とされていた。
鳥居の横には樹齢700年といわれる大けやき。
現在の社殿は1923年関東大震災後に復興したもの。
宗我神社を出ると謎の柱が道路の両脇に2本あった。
ここは1本。
ここも1本。
調べてみたがよく分からなかった。
尾崎一雄文学碑
尾崎一雄は曽我出身の作家で第5回芥川賞受賞や、文化勲章受章した人物。
鳥居をくぐり宗我神社方面を振り返る。
鳥居横にある鳥居建設碑。
かなり年代を感じる。
さてこの先下曽我駅まで向かうか、国府津駅まで向かうか考えていたが、より遠くの国府津駅に向かうことにした。
城前寺に向け右に進む。
城前寺にはすぐに到着。
城前寺は曽我兄弟の菩提寺で兄弟の育った曽我城の大手前にあるのでこの名がある。
1193年富士の裾野で兄弟が父の仇の工藤裕経を討った後、叔父の宇佐美禅師はその遺骨を携え此の地に来て庵を結び兄弟の菩提を弔ったのがこの寺の始まりと伝えられている。
境内には十郎、五郎、父裕信、母満江御前の供養墓や十郎が大磯の虎御前をしのび腰を掛けて笛を鳴らした忍石、坪内逍遥筆で歌舞伎俳優連中寄付の兄弟の記念碑などほか各種のゆかりの品がある。
この後は国府津・曽我の里散策コースび沿って進んでいく。
道路脇には浮彫双立像などがある。
矢印に沿って進んでいく。
分岐左は丘陵コースなので、右の里コースに進む。
ここは悩んだが右に進む。
72号線に出た。
左を見ると史跡 二宮尊徳遺髪塚入口とあるので行ってみる。
ここは大山道というらしい。
大山は神奈川県の最高峰のひとつで、雨降山とも呼ばれた。
大山への参詣道が大山みちで、相模平野の各地から多くのルートがあった。
曽我の大山みちは、千代~曽我原~殿沢川~曽我別所~六本松峠~田中のルートである。
二宮尊徳遺髪塚
尊徳二宮金次郎 の母よしの実家は、旧曽我別所村の川久保太兵衛であった。
当時、川久保家は父太兵衛の才覚で繁栄していたが、兄太兵衛の代になると、分をこえた生活と病災にみまわれて家運も傾きはじめた。
1840年尊徳は川久保家の再興を図ることになり、市太郎、民次郎、常次郎の三人の子息に無利息の報徳金を貸与し、復興の指導を行った。
その結果最も優れた成果を上げた民次郎が川久保家を継ぐことになった。この民次郎は下野国の桜町(栃木県二宮町)仕法時代から、永らく尊徳に従者として仕えており、尊徳の死去にあたり、その遺髪を得て曽我へ帰った。
この遺髪塚は民次郎の遺言によるもので、孫の與三郎が昭和十三年にその遺志を継いで建てたものである。
先に進む。
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国府津駅から曽我丘陵を歩く。
曽我神社に到着。
宗我神社は1028年創建で、 小田原北条氏の時代から小田原城鬼門擁護の神社とされていた。
鳥居の横には樹齢700年といわれる大けやき。
現在の社殿は1923年関東大震災後に復興したもの。
宗我神社を出ると謎の柱が道路の両脇に2本あった。
ここは1本。
ここも1本。
調べてみたがよく分からなかった。
尾崎一雄文学碑
尾崎一雄は曽我出身の作家で第5回芥川賞受賞や、文化勲章受章した人物。
鳥居をくぐり宗我神社方面を振り返る。
鳥居横にある鳥居建設碑。
かなり年代を感じる。
さてこの先下曽我駅まで向かうか、国府津駅まで向かうか考えていたが、より遠くの国府津駅に向かうことにした。
城前寺に向け右に進む。
城前寺にはすぐに到着。
城前寺は曽我兄弟の菩提寺で兄弟の育った曽我城の大手前にあるのでこの名がある。
1193年富士の裾野で兄弟が父の仇の工藤裕経を討った後、叔父の宇佐美禅師はその遺骨を携え此の地に来て庵を結び兄弟の菩提を弔ったのがこの寺の始まりと伝えられている。
境内には十郎、五郎、父裕信、母満江御前の供養墓や十郎が大磯の虎御前をしのび腰を掛けて笛を鳴らした忍石、坪内逍遥筆で歌舞伎俳優連中寄付の兄弟の記念碑などほか各種のゆかりの品がある。
この後は国府津・曽我の里散策コースび沿って進んでいく。
道路脇には浮彫双立像などがある。
矢印に沿って進んでいく。
分岐左は丘陵コースなので、右の里コースに進む。
ここは悩んだが右に進む。
72号線に出た。
左を見ると史跡 二宮尊徳遺髪塚入口とあるので行ってみる。
ここは大山道というらしい。
大山は神奈川県の最高峰のひとつで、雨降山とも呼ばれた。
大山への参詣道が大山みちで、相模平野の各地から多くのルートがあった。
曽我の大山みちは、千代~曽我原~殿沢川~曽我別所~六本松峠~田中のルートである。
二宮尊徳遺髪塚
尊徳二宮金次郎 の母よしの実家は、旧曽我別所村の川久保太兵衛であった。
当時、川久保家は父太兵衛の才覚で繁栄していたが、兄太兵衛の代になると、分をこえた生活と病災にみまわれて家運も傾きはじめた。
1840年尊徳は川久保家の再興を図ることになり、市太郎、民次郎、常次郎の三人の子息に無利息の報徳金を貸与し、復興の指導を行った。
その結果最も優れた成果を上げた民次郎が川久保家を継ぐことになった。この民次郎は下野国の桜町(栃木県二宮町)仕法時代から、永らく尊徳に従者として仕えており、尊徳の死去にあたり、その遺髪を得て曽我へ帰った。
この遺髪塚は民次郎の遺言によるもので、孫の與三郎が昭和十三年にその遺志を継いで建てたものである。
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2019-07-05 06:00
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