SSブログ

国府津散策③ [散策]

前週に続き湘南方面散策に行ってみた。
国府津駅から曽我丘陵を歩く。

20190216 国府津散策 73.jpg

曽我神社に到着。

20190216 国府津散策 74.jpg

宗我神社は1028年創建で、 小田原北条氏の時代から小田原城鬼門擁護の神社とされていた。

20190216 国府津散策 75.jpg

鳥居の横には樹齢700年といわれる大けやき。

20190216 国府津散策 76.jpg

現在の社殿は1923年関東大震災後に復興したもの。

20190216 国府津散策 77.jpg

宗我神社を出ると謎の柱が道路の両脇に2本あった。

20190216 国府津散策 78.jpg

ここは1本。

20190216 国府津散策 79.jpg

ここも1本。

20190216 国府津散策 80.jpg

調べてみたがよく分からなかった。

20190216 国府津散策 81.jpg

尾崎一雄文学碑
尾崎一雄は曽我出身の作家で第5回芥川賞受賞や、文化勲章受章した人物。

20190216 国府津散策 82.jpg

鳥居をくぐり宗我神社方面を振り返る。

20190216 国府津散策 83.jpg

鳥居横にある鳥居建設碑。
かなり年代を感じる。

20190216 国府津散策 84.jpg

さてこの先下曽我駅まで向かうか、国府津駅まで向かうか考えていたが、より遠くの国府津駅に向かうことにした。
城前寺に向け右に進む。

20190216 国府津散策 85.jpg

城前寺にはすぐに到着。

20190216 国府津散策 86.jpg

城前寺は曽我兄弟の菩提寺で兄弟の育った曽我城の大手前にあるのでこの名がある。
1193年富士の裾野で兄弟が父の仇の工藤裕経を討った後、叔父の宇佐美禅師はその遺骨を携え此の地に来て庵を結び兄弟の菩提を弔ったのがこの寺の始まりと伝えられている。

20190216 国府津散策 87.jpg

境内には十郎、五郎、父裕信、母満江御前の供養墓や十郎が大磯の虎御前をしのび腰を掛けて笛を鳴らした忍石、坪内逍遥筆で歌舞伎俳優連中寄付の兄弟の記念碑などほか各種のゆかりの品がある。

20190216 国府津散策 88.jpg

この後は国府津・曽我の里散策コースび沿って進んでいく。

20190216 国府津散策 89.jpg

道路脇には浮彫双立像などがある。

20190216 国府津散策 90.jpg

矢印に沿って進んでいく。

20190216 国府津散策 91.jpg

分岐左は丘陵コースなので、右の里コースに進む。

20190216 国府津散策 92.jpg

ここは悩んだが右に進む。

20190216 国府津散策 93.jpg

72号線に出た。

20190216 国府津散策 94.jpg

左を見ると史跡 二宮尊徳遺髪塚入口とあるので行ってみる。

20190216 国府津散策 95.jpg

ここは大山道というらしい。
大山は神奈川県の最高峰のひとつで、雨降山とも呼ばれた。
大山への参詣道が大山みちで、相模平野の各地から多くのルートがあった。
曽我の大山みちは、千代~曽我原~殿沢川~曽我別所~六本松峠~田中のルートである。

20190216 国府津散策 96.jpg

二宮尊徳遺髪塚
尊徳二宮金次郎 の母よしの実家は、旧曽我別所村の川久保太兵衛であった。
当時、川久保家は父太兵衛の才覚で繁栄していたが、兄太兵衛の代になると、分をこえた生活と病災にみまわれて家運も傾きはじめた。
1840年尊徳は川久保家の再興を図ることになり、市太郎、民次郎、常次郎の三人の子息に無利息の報徳金を貸与し、復興の指導を行った。
その結果最も優れた成果を上げた民次郎が川久保家を継ぐことになった。この民次郎は下野国の桜町(栃木県二宮町)仕法時代から、永らく尊徳に従者として仕えており、尊徳の死去にあたり、その遺髪を得て曽我へ帰った。
この遺髪塚は民次郎の遺言によるもので、孫の與三郎が昭和十三年にその遺志を継いで建てたものである。

20190216 国府津散策 97.jpg

先に進む。


人気ブログランキングへ
nice!(0)  コメント(0)